第26回ときめき☆セミナー(※終了しました)


HIV感染症対策とビオポリティーク

 発表者:大北全俊(大阪大学)


アドルノとは誰か——ビオグラフィーのビオポリティーク

 発表者:入谷秀一(大阪大学)




日時:2011年12月13日(火) 14:00−17:00

場所:大阪大学大学教育実践センター・スチューデント・コモンズ1階・開放型セミナー室

共催:哲学哲学史・現代思想文化学・臨床哲学専修

会場へのアクセス

※どなたでも自由に参加できます。


————発表要旨————

HIV感染症対策とビオポリティーク(大北全俊)

 HIV感染症は、感染症であると同時に、抗HIV薬の服薬継続により、完治に至らないまま長期の生存が可能な疾患となったことからいわば慢性疾患と類似した側面も併せ持つ。それゆえ、HIV感染症対策は、いわゆる感染予防対策と同時に慢性疾患への対策などヘルスプロモーションと通じる性格を併せ持つこととなる。さらに、その感染経路は主に性感染(世界ではその地域によって主たる感染経路は異なる場合もあるが)であることから、感染予防の対策は、性行動に焦点をあてることとなる。なかでも、男性同性愛者やセックスワーカーなどが感染に脆弱な層とされることから、感染症対策は、マイノリティおよびスティグマの問題に関与せざるを得ない。HIV感染症の対策は自ずと、あらゆる人々の生活の諸相へと介入し、社会および規範の問題に深く関与することとなる。
 このようなHIV感染症対策は、ビオポリティークの顕著な現れであるかもしれない。それゆえ、そこから抜け落ちるもの、見えなくなるもの、あるいはHIV感染症対策がはからずも生み出してしまうもの、そこにもしかしたらビオポリティークへの抵抗の糸口があるのかもしれない。その点についてHIV感染症対策を通覧しながら考察する。


アドルノとは誰か——ビオグラフィーのビオポリティーク(入谷秀一)

 主体は他者を模倣することを通じて他者から身を引き離し、自らの同一性を鍛え上げる。アドルノがホルクハイマーとともに『啓蒙の弁証法』で物語るこのオデュッセウスのビオグラフィー(伝記)は、まるでアドルノ自身の生を物語っているようだ。彼ほど他者にパラサイトすることで生き延びたものも珍しい(彼はベンヤミン以上にベンヤミン的に ふるまった、とはよく言われることである)。にもかかわらず彼は、ハイデガーほどに特定の対象にゆっくり関わることはない。彼は他者を、その客観化された生としてのテクストをつまみ食いする。しかしよいではないか。結局われわれはだれもが、他人をつまみ食いして生き延びているのだから。とはいえ、アドルノが他者を食い散らかす所作には、野放図ではない「かたち」があり、ある種のナラティブ(物語)がある。逃げ場のない管理社会とユートピアという、コインの両面のような世界のヴィジョンがそれだ。それは21世紀の現在では無意味なイデオロギーにすぎないのか。あるいは単なるつまみ食い以上の真理を、「正しい」生の在りようを告げるものなのだろうか。
 ひとは誰もが他者の、あるいは民族、国家のビオグラフィーに自らを巻きこみ、また巻きこまれつつ生きている。そうした力関係の総体を生政治(ビオポリティーク)と呼んでよければ、このポリティークに何らかの倫理的規範を求めることができるのだろうか。アドルノについて「物語る」ことで考えてみたい。


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